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この悪循環はその通りだろうと思うんですが、興味深いのは私自身の最近の感慨として「学校時代にもっと教科書を読んでいればなあ…」があること。ちょうど今週の結城メルマガに書いた話だ(先週だっけ?)。 https://twitter.com/stdaux/status/936883729099759616

おそらくは、両方いるんだろうなと思う。教科書に縛られて成績が良くない人は、もっと考えたり試したりする学びが必要で、教科書なんぞ読まなくても「自分の常識」でやっていけるいい成績の人は、教科書などで考えを整える学びが必要。集団で学習する限界がほの見えるけど。

「見抜く先生」がいると「あなたは成績がいいけど、それに甘んじずにもっと高度なことをやったり、足場を固めたり」みたいな指導してもらえるのかもしれない。その「教師との出会い」は運だよなあ。

「見抜く先生」のように個人属性っぽく書いてしまったけど、授業や教材を研究する時間を教師に多く与えるなら、「普通の先生」でも授業の質を上げたり、現在の生徒の理解度に合わせた授業をしやすくなると想像しています。

確かに「自分が何を理解していないか」を認識するのは難しいですし、「何がわからないのか」を表現するのも難しいです。それに関連して思うのは「そもそも、自分が理解しているか否かに関心がない」という人もいるという事実。
https://twitter.com/m_yas1028/status/938573596523356160

「自分があることを理解しているか否か」に関心がないため、「自分はどこまで理解したか」「何を理解してないか」「どうすれば理解していると試せるか」「どうすれば理解できるようになるか」「ほかの人はどのように理解しているか」といった疑問を抱くことがまったくない人もいます。

それは、リフレクティブな思考です。自分自身の理解を理解しようとすること。で、これは、結城がそのうち書こうとしている #メタ についての本が扱う話題でもあります。

自分の理解に関心がない人にとっては、理解を助けるさまざまなツール(学校、教師、教科書、問題集、テスト、単元、暗記…)の存在意義が理解できません。人によっては「手を替え品を替え自分をいじめるツール」と見ている人もいるかもしれない、と想像しています。

自分の理解に関心があるというのは、ゼロイチではありません。人によって程度の違いはありますしどれが良い悪いとも限りません。

ただ、自分が何かを理解することに関心がほとんどない人と、自分が理解することに喜びを感じる人では、学び方に大きな差異が出るのは当然でしょう。

「自分の理解に関心がない人」というのは決して固定的なものではありません。何かをきっかけに「はっ!理解するというのは楽しいことではないのか?!」と目覚める人はたくさんいます。願わくば拙著がその一助とならんことを。

>「自分の理解」に関心がないと、学びは始まらない。
https://rentwi.hyuki.net/?938567025844039680

2017-12-07 (Thu) 09:33:11