[rentwi.hyuki.net]

「普通か否か」と「正常か否か」と「多数派か否か」はすべて違う。世界のすべての人が滅んで、自分一人になったとしたらどうか、を想像すればいい。

1+2=3は、世界に私が一人でも「正しい」と言える。

自分の考えが「普通」なのか「正しい」のか「多数派」なのかは違う概念である。大雑把な思考しかできない人は、この三つを同一視する。あなたはどうかな。

他人の作品を評価するときも、言葉をよく選ぶのがいい。「好き/嫌い」なのか、「ウケる/ウケない」なのか、「売れる/売れない」なのか。

愚かな批評家ほど、主語が大きい。「この作品は、未来永劫、全人類から受け入れられないはずだ」

思慮深く、経験のある批評家は、注意深く限定する。「〇〇を意識する人は、この作品を拒絶するでしょう。しかし」

誰しも、承認欲求がある。でかい風呂敷広げれば偉いと思ってもらえるという老人は多い。怒鳴りつければ尊敬されると思う壮年も多い。社会ってそういうもんだという御局様もいる。全部「わたしを崇めよ」という主張だ。

なぜそんなことを言うかというと、とても悲しいことに、わたし自身にそういう傾向があるからだ。こわいことに毎年毎年その傾向は強まる。まるでそれは、自分の残り寿命と承認欲求が反比例するかのようだ。

承認欲求の根底には、「人間は社会的存在」というテーゼがあるのだろうな、と思う。

現在のわたしの理解はこうだ。

私が承認欲求を持つのと同じように、相手も承認欲求を持つ。だから相手を受け入れないことには、何も始まらない。

いま面と向かっている「この人」が、私と同じ人間であること。スーパーマンでもなく、アニメのヒーローでもなく、ただの、一人の、承認欲求を求める一人の人だと理解すること。その点で「私」と同じであること。そこから、すべての対話が始まる。

バカでエロくて生意気で、気弱で情けなくて力に媚びる。スマートでクリーンに儲かるなら尻尾を振る。都合の悪いことは家族からもすべて隠し、都合がいいことはさりげなく全世界にアピール!…というのが人間の姿だと思う。

そして私は思う。愚かでせせこましい人間に対して…理解せずに、求めるのは愚か。理解して求めないのは愚か。理解せずに求めないのは愚かの二乗。

(バカでエロい誰かを)理解して、理解した上で進むべき道を示す人は、真の教師であると思う。あなたのまわりに、一人くらいはいる(いた)はずだ。

(ここから先はキリスト教の話)

そう考えると、「神が人になる」というのは確かに驚天動地の出来事だ(クリスマスのこと)。それは、「人間がゴキブリになる」ようなものだから。「プログラマがGitHubにコミットされる」ような脅威である。カテゴリエラーだ。

「命を賭ける」は「愛する」と同義語である。「君のためなら死ねる」と同じ。昭和的だと笑わば笑え。ここには真実がある。男性は自分の命とかえてもかまわないと思って女性にプロポーズする。配偶者を持つ男性の大半は「あなたが死ぬなら配偶者の女性は生きる」と言われたら、何の迷いもなく死を選ぶ。

これは理屈ではなくて、心意気の問題です。「意思」と言える。優先順位とも言える。レディファーストの極限。「私の命より、私の妻〇〇の命を優先してください、神様!」という心意気のことです。

私は強い確信を持って言えるのだけれど、少なくとも男性既婚者の大半は私に同意してくれるはず。自分の命よりも、配偶者の命を優先することに。

「愛」の具体化がここにある。愛とは何か?と思った時に、手近にいる夫婦を想像せよ。それは、まあ、ええと、いろいろ問題はあるものの、愛の具体化である。自分を犠牲にして、喜んで犠牲にして、相手を生かすという意思。それが夫婦だから。

私の妻は、もしも私が「あなたのために私は命を捧げました」と言ったら、驚き涙を流し嘆き喚くだろうけれど、きっといつか理解するはず。あの人ならそれをやるかもしれない、と。私の妻は夫である私を理解しているから。

2016-11-12 (Sat) 16:26:55