[rentwi.hyuki.net]

自己責任の重みについて。

高校時代。結城の父親は教師だったし、両親とも当然のように大学進学について積極的だった。だから結城自身も大学進学を当然のこととして考えていた。あるとき、

あるとき、ちょっとつるんでいた友人から「おまえほんとに大学にいくのか?」と言われたことがあった。

いまとなってはもう記憶もおぼろげだけれど、その友人は「自分の経験」と称して(同じ高校生なのに)、いかに大学進学が無意味か、大学にいったとしても苦労することは目に見えている的なネガキャンを張っていた。私は鈍感だったから「へー」と聞き流していたけれど。

今にして思えば、あの友人は純粋な「好意」からあの発言をしたのだろうと思っている。でも、よくよく考えてみると、これはなかなか大きな問題をはらんでいるなあと思った。

題材はなんでもいい。ともかく、将来的に大きな意味を持つ分岐点の選択で、誰かの発言をどう聞くか、という話題である。大学進学でもいいし、就職でも、結婚でもいい。家を出て一人暮らしというのも同じかも。宗教のこともあるし、研究室選びなんかもそれに通じる。

つまり、なんかの拍子に、知り合いの誰それの話やアドバイスを聞くことは誰にでもある。でも、最終的な判断は(そしてその結末は)自分自身に掛かってくるということを思ったんですよ。

高校時代。進路を考えて、大学のことを考えているとき、たまたま結城は家族の理解もあったし、そもそも家族からの後押しがあったから、まったく動くことはなかった。そして大学に行ってほんとうに良かったと思う。でも、

でも、人によっては、何気ない友人の一言で、自分の未来の重大な決定で誤ってしまう危険性はあるのだな、と思う。すごく成績が良くて、能力も高くて、大学に行くべき人であっても、友人の一言で決心が揺らいだりする危険性はいかにもありそうだ。もちろん、将来的にその友人は何の責任もとらない。

この連ツイは「自己責任の重み」というテーマで書いている。自己責任。つまり、まわりから有益・無益のアドバイスや助言や脅かしはたくさんやってくる。でも、その何をどう聞いて、どう判断するか。自分の決断はどうか。というのは、最終的に「自己責任」になる。

それは、ある意味でとてもこわいことである。現代の日本なら、かなり自由度が高い(はず)。でも、その自由度の高さのゆえにこわい。高校生、大学生、社会人、どの世代にも「判断」や「決心」はつきまとう。

ある人の言葉は有益なアドバイスになるかもしれない。同じ人の言葉が別のタイミングではとんでもない暗黒面への誘いになるかもしれない。それは、誰にもわからない。「自己責任」「自己判断」するしかない。

材料はたくさんある。書店にいけば、いろんな立場のいろんな意見が載った本がある。その9割くらいは役に立たなくて、1割くらいはとても役に立つのだが、どれがその1割に値するかはわからない。

高校生の進路の問題もそうだし、大学生の就職活動もそうだし、適齢期男女の配偶者選びもそうかな。年をとってくれば健康問題や、ほらほら代替医療の問題もありますよね。

社会がちゃんとするのを求めるのは正しいし、法制化も大事だけれど、近々に問題となるのは「私はこれからどうすればいいの?」という個人的な問題である。その個人的で重要な問題を、何を参考にしてどう答えを見出すか。それが問われる。

アドバイスは誰でもできるし、参考書もたくさんある。でも、最後の判断はいつも「自分」で行う必要がある。自己判断と自己責任である。

結城の身近な話をすれば、たとえば結城は次にどんな本を書けばいいのかという問題がある。いろんな人がアドバイスをくれるかもしれない。出版社にしろ読者にしろ、それぞれの期待がある。でも最終的に、いつ、なにを、どうするか、は著者である自分で判断するしかない。

せめてものさいわいは、本を書く仕事に関しては、自己責任が徹底していて、うまくいけばたくさん収入があるし、うまくいかなければそれほどでもない、と直結している点かな。つまり、自分以外の要素によって不利益をこうむる度合いが低い(まあ、だから、こういう仕事をしているんだけど)。

自己判断と自己責任。私たちは一人一人異なる考え方を持っている。能力も違うし、価値観も違う。年齢も違えば、家庭環境も違う。「次の一歩」をどう進めるべきか、を単純に論じることはできないし、他人が強制することもできない。自己判断と自己責任。

結城が心情的に嫌いな状況が二つほどある。一つは、自分の不幸をすべて他人に負わせること。私自身、そうしたくなる状況の存在は理解しつつも、それをやってしまうと、かえって不幸から抜け出せないのではないかという思いがある(けれど、ここでは深入りしない)。

もう一つは、自分の幸運をすべて自分に帰すること。これは脳天気すぎるから嫌い。まあ、この連ツイの自己責任とはちょっと矛盾しますけどね。まあいいや。

話を戻すと、結城自身が考える「望ましいあり方」というのは、多くの人にアドバイスを求め、情報を集めた上で、最終的な判断は自分で腹をくくって行うというものだ。自己判断と自己責任。

と、書いていて気付いたのだけれど、結城の毎回の執筆はまさにこのスタイルになっているな。結城は本を書くときに、何十人かのレビューアさんに原稿を送る。一章ずつPDFを信頼できる人に送り、自由な感想(批判、意見)を求める。そしてそのすべてにフラットに耳を傾ける。

それは、レビューアからの情報をそのまま本に使えてラッキー、という話ではない。そうではなくて、できるだけ多様な意見を見据えた上で、その上で、自分なりの判断を行うことが読者の益になると思っているからだ。

結城はあとがきやまえがきでレビューアさんの名前を掲げて感謝する。それは、結城に対して重要なアドバイス(批判、意見)を送ってくれたことに対する感謝である。しかし、すべての責任は著者である私にある。本に対して読者が非難する点があるなら、それは100%結城に向けるべきだし、

たとえ、もし仮にレビューアさんからの情報を元に結城がまちがったことを書いたとしても、それは判断ミスをした結城に責任があるのであって、情報を与えたレビューアさんの責任はゼロである。レビューアさんを非難するのは当たらない。

結城にはこの立ち位置、座組、責任分担が非常にしっくりくる。だからそういうスタイルでレビューを実施しているのだ。でも「レビューした人に責任はない」というのは著者が書く決まり文句ではある(正しい決まり文句だ)。

自己判断と自己責任。これが大切になる場面は、人生のあちこちに存在する。進路決定もそうだし、就活も、婚活もそうだろうね。そこには他の人の意見を聞く柔軟さと、最終的に自分の仕事や自分の人生の決断をするのは自分自身だという腹づもりが必要だろう。

(クリスチャンなら、さらにここに神さまのご意志が出てくるのだけれど、ここではそこには進まない)

そもそも、他人に対して「責任をとる」というのがかなり眉唾なところがある。自分に対してならばわかる。大きな不利益がやってきたとしても「これは私自身の判断ミスだ」といって甘んじて受けることになるだけだから。他人に対しては、責任を取るというのはとても難しい。

ある意味では「結婚してください」というプロポーズは「ある意味で、私と同じ舟に乗ってください」ということなんだろうな。もしかしたら、私の判断でとんでもないことが起きるかもしれない。私はがんばるけれど、そのとんでもないことにいっしょに耐えてくれないか。というプロポーズ。

そういえば、私の家内はいつもその話をするなあ。「とんでもない私という存在をよく受け止めて結婚してくれましたね」と私にいう家内。そのセリフと同じことを、私は家内に対して言いたいのだけれど。

そろそろ連ツイを終えますが、今回結城がぼんやりと思っていたのは高校生の読者でした。進路を決める。進路を考える。そのときに、自分が最終判断者であるという覚悟は大事。自己判断と自己責任。でも、かたくなになるのは非常によくなくて、信頼できる人のアドバイスは広くもらうべき。

人の話を聞かない判断はまちがっているけれど、判断の結果を人のせいにするのもまちがっている。結城はそんなふうに思っています。

(もちろんここにはたくさん抜け落ちている前提条件や、多くの例外があることはわかっていますけれど。(と書いておかないと極端な意見がたくさんやってくる))

ということで、今回の「自己責任の重みについて」という連ツイは、以下のURLにまとまる予定です。
http://rentwi.textfile.org/?680636453584388096s
そして、加筆修正の後、来年のいつか、結城メルマガの読み物になる予定です。
http://www.hyuki.com/mm/

2015-12-26 (Sat) 15:29:10