ときどき、調べ物や確認のために昔書いた「数学ガール」シリーズを読み返すことがあります。その際に「現在の私にこれは書けないなあ」と感じることがよくあります。数学の内容にせよ、彼女たちの振る舞いや心の動きにせよ。
書けないといっても、それに対して悲しいとか悔しいとかそういうことを感じているのではありません。むしろ逆です。私は「そのときにしか書けないことを書いて来たのだな」という達成感を味わうのです。
文章に限りませんが、クリエイタ系の人がおちいる大きなワナの一つは「もっとうまくなってから発表しよう」というものです。私も経験がたくさんあります。もっとうまくなってから、もっと詳しくなってから、もっとできるようになってから、もっと理解してから…
もちろん、自分の知識を深めたり、技能を伸ばしたり、馬鹿な間違いをしないよう努力することは大切です。しかし、物事には程度というものがあります。どこかの時点では、不十分なものを抱えているにも関わらず、何とか作品を取りまとめて世に出すことが必要になるのです。
そして忘れてはならないことは、自分は生きているということ。生きているというのは変化しているということです。ものの見方、とらえ方、技術に価値観、どんどん変化します。「いま」の自分を形にすることは「いま」しかできないのです。
初めてそれを見た感動を、最初に「なるほど」と思った瞬間を、作品として結晶化できるのは今しかないのかもしれない。うまくなってから、ではなく、もっと詳しくなってから、ではなく、現在の私の感動を形にするチャンスはいましかないのではないか。いま書くことに意味がある。
自分は生きていて、どんどん変化する。興味や関心も変わっていく。そのつどそのつど、自分の作品を残していこう。形にしよう。不十分な理解でもいい。技術がまだまだでもいい。そういうことではないのだ。風のように過ぎ去ってしまう「いまの自分」をどう形にするかなのだ。
いまの自分が心に描いていること。それを作品として外に出すことができるのは、世界中で自分しかいない。それこそオンリーワンだ。しかも、少し日が経てば、自分にすらできなくなることだ。
いま、書こう。
いま、描こう。
いま、作ろう。
いまの自分が書けるものを書く。いまの自分が描けるものを描く。いまの自分が作れるものを作る。
実は、いつの時点でもそうなのだ。自分が作品を作れるときは「いま」しかない。
私は、そんなふうに思っています。