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科学でも、プログラミングでも、数学でも、リコーダーでも、なんでもいい。ちゃんと自分で、頭と手を使って「何かを実現したい」と思った人は、わかると思うんだ。当たり前に見えることでも、ちゃんとやるのは難しいと。そして、世の中にはびこる「自分では何もやらない批評家」が、いかにいい加減か。

村上春樹のエッセイだったかな。批評家に言ってはいけない言葉があるそうだ。それは「そんなこと言うんだったら、あんたが書けば?」である。それは批評家に言ってはいけない言葉らしい。なるほど。

真面目な話、自分が作るものの「価値のなさ」を最もよく知る人は、書いた本人である。価値なんか知ったことか。私は今日を必死で生きた。必死で生きた今日を文字で表したものがこれだ。価値がない?そうだろう。これは私の時間であり、読者のために注いだ時間だ。あなたは私の読者かな?

技術的な本ならば、技術的な知見が著者から読者に伝われば成功である。一人一人が何日も何ヶ月もかかる知見が短い時間で得られた。なんて素晴らしい。誰がなんと言おうとも、この著者が、私の時間を稼いでくれたと言うなら、素晴らしい著者だ。賞賛しよう!批評家はどうでもいい。

文章表現を味わったり、何か複雑なことを理解するような本もある。そこでも大事なのは「読者であるあなた」がどう感じたか、である。世の中の批評家の意見ではない。夜中、この本を読んでいて「ああ、確かにそうだなあ!」と思ったなら、その実感そのものは本物だ。それは、大切にしよう。

もちろんあとから考えてみたら「まあ…イマイチかもね」と言うこともある。だとしても、あの時の実感そのものを否定する必要はない。「あれはあれでよかったね」という落とし所があってもいいはず。

せっかくこの現代に生きているのだから、作品に接したときの気持ちを大事にしようよ。あとから調整することがあっても恥ずかしいことはない。あのときの私は、これがいいと思った。いまの私は、これがいいと思っている。そんな感想でもまったく恥ずかしくなどない。自分の気持ちを率直に述べよう。

素朴な気持ち、率直な気持ち、正統的な委員長的ないささか古い価値観の気持ちに対しては、少なからぬ人が「ひとこともの申す」はず。でも、誰がなんと言おうとも、そのときあなたがそう感じた事実までは否定できません。あなたが否定しない限り。

世の中には、人の意見や感覚を濁らせることに使命を感じている歪んだ人がいます。幸福な人や、喜んでいる人や、素朴な楽しみに興じている人に我慢がならない人がいます。その人にはその人の盤石なロジックがあり崩すことはできません。でも、あなたがその人のロジックに従う義務はまったくありません。

うれしいことがあったら、うれしい!と言っていいんです。いくらでも喜んでいいんです。楽しいことがあったら楽しい!と言っていいんです。いくらでも楽しみましょう。喜び、喜べ!

私たちが生きているのは、たかだか百年しかない。「自分のまわり10cmしか見てないシニカルな批評家」に、自分のふっくら豊かな人生をしぼませないようにしよう!大事な時間を愚かな批評家のために費やすな。喜ぼう。もっと喜ぼう!あなたの人生はもっともっと広がるのだから。

あなたの人生を腐らせる人の特徴は決まっている。9割のウソをあなたに吹き込むために、あなたの1割の弱点を突くのだ。あなたはこうだったから、あなたはこうしたから、あなたはこう言う人間だから、だから、あなたはダメだ!とおとしめてくる。あなたを突いてくる。そんなの、ウソだ。蹴とばそう。

見極めよう。あなたをコントロールしようとする声を。見分けよう。あなたを引きずろうとする声を。がんばって!孤軍奮闘しているあなたを応援しています。

>あなたを引きずり下ろそうとする「愚かな批評家」に負けるな。

http://rentwi.textfile.org/?786872093346402305s

2016-10-14 (Fri) 19:11:41